もふるの日記

心身ともに健やかであること

自分はただ、運がよかっただけ

最近、この手の記事というか、情報にちょっと興味が出てきている。

 

newsdig.tbs.co.jp

 

自分とこういう人の、何が違ったのだろうかと。

 

自分は今、40手前、男、エンジニアとしてそこそこ安定した中小企業に勤務、独身(同居のパートナーがいて別れない限りこのままと思われる)。
仕事が嫌になれば、まあやめてもしばらく暮らしていけるか、という程度の資産はある。


守るべき家族もローンも無く、射幸心を煽るギャンブルやスマホゲーム、宝くじや推し活にハマったこともない。
他人から見て無駄と思える趣味は、酒とマラソン、トレイルランくらいか。

オレの人生大成功!と言えるほどのものは無いけど、それなりに好きなことして大きな不安なく生きていけている、こんなオレと、こういう人の、何がどこで違ったのだろうか。

 

仕事に関して、ものすごく頑張ってきたわけではない。
むしろ、エンジニアとしては自分よりできる人が多くいる中で挫折を感じることも多かった。

そもそも「頑張る」とは何か。
ツラいことに耐えて我慢する、とかならまだ学生時代の部活の方が頑張った気がする。
もちろん努力をしなかったわけではないが、そもそもエンジニアリングというのは、努力している人よりも好きで楽しく学んでいる人の方が秀でるのだということに気づいてからは、自分大したことねぇな、と思うことが多かった。
もっと勉強に時間を割ければ、と思いながら易きに流れる自分にがっかりすることも多かった。

 

自分が今こうしているのは、適正(才能というより適正という言葉を好む)とか環境とかに恵まれただけで、冒頭の記事の人なんかはちょっとそれに恵まれなかった、ただそれだけの違いなのではないか。

 

手取り約25万円で、家賃(駐車場代込み)8万4000円、携帯代(離婚した妻と息子の分も含む3人分)約3万7000円というのが、バカじゃねぇかなと思うのだが、それも含めて。

 

そんな気がする、旅の夜である。

「頑張る」アプローチは若者の特権

会社で360度評価的なものをしてもらった。
自分の思っていた強み・弱み(もっと期待すること)と周囲から見たそれをすり合わせ、どのように自分の強みを伸ばすか、どう組織に貢献するか、を考えるアプローチだった。
考えたことがあるので残しておく。

 

平成の体育会系出身としては、とにかく頑張れば報われる、やってだめならもっとやれ、という思想で育ってきた人も多いだろう。

体育会系に限らず、勉強なんかでも、苦手なことに頑張って取り組み、できなかったことができるようになることを評価するのが学校教育だ。
最初から上手くできる人より、苦手なことに取り組みちょこっと上達した人を評価する仕組みだが、社会に出ると結果重視、数字を出した者を評価するのが、会社組織だ。
(まれに、頑張ったプロセスを評価する会社もあるらしい。何がビジネス的にあたるかわからないご時世、チャレンジしたことを評価するのも一理だ。)

ただ、若いうちは、苦手なことでも粘り強く取り組めばそれなりにできるようになる。
データがあるわけではないが、経験的にもそんな気がする。
困難なことでも、体力に任せて時間をかけて粘り強く取り組めば、なんとかできてしまうのは、受験勉強から大学の提出物から文化祭の準備から新入社員の頃の仕事からと枚挙に暇がないし、社会に出て若いうちはそれだけが取り柄だったりもする。
そもそも最初から仕事ができる人は少ないので、粘り強く取り組むことで獲得するスキルや見えてくる性質もある。
(若い時の苦労は買ってでもしろ、というのは死語になりつつあるが、無駄な努力と有意義な努力というのは間違いなくある。)

しかし、歳を取るとそうもいかなくなる。
新しいことを学習し身につけるコストは若いときよりも高くなるし(学習の仕方が身についてるはずなんだけどな)、粘り強く取り組む体力も昔ほどはない。

そこで大事になるのが、自分の性質を理解し、仕組みを作って上手くやるアプローチだ。
これを間違うと、痛い。

 

働かないおじさんというのがいる。

在籍年数だけ長く会社の戦力にならないのに高給取りで、給与泥棒と言われる人たちだが、意外とやる気はあるという調査結果がある。

 

mainichi.jp

 

抜粋する。

 

大きく低下したのはハードワーク許容度。例えば「やりたい仕事であれば、仕事以外の時間が削られても仕方がない」の設問では、アンケート回答時点が29・8%、就職活動時点は49・3%だった。

 (中略)

 「中高年の多くは定年退職に近づくにつれ、自分の裁量がなくなったり、報酬が下がったりしていきます。やる気がなくなる職場環境になっているのに、内的報酬は高いままなんですね。職場が活躍できる機会を提供すれば、いきいきと働けるのだと思います」

自分の性質を理解し、それを上手く使って会社に貢献する仕組みを作れば、会社もおじさんも周囲もハッピーなのだろう。

これを構築できなかった「働かないおじさん」も残念だが、マネジメントの要諦の一つは適材適所なので、彼らを上手くマネジメント出来なかった上層部も残念だ。

 

自分の性質を理解するというのは、強みを知るのみならず、弱みを受入れ、できないことをある種諦めるマインドが必要になる。

これを腹落ちさせるには、ツラさが伴う。
ともすれば、自分の弱みを受入れられず、頑張れば克服できる、得意にならないまでもなんとかなる、と若かりし日や体育会系のマインドを思い出してやろうとするが、もはやそれをやりきる気力や体力がないのがおじさんである。

 

若いときは、出来ないことのほうが多かった。
それを努力してできるようになるのが成長の過程であり、成果をあげるアプローチだった。

おじさんになってからは違う。
できないことをできるように頑張るのではなく、自分の性質を理解し、それを上手く活かす仕組みを作ってビジネスに貢献するのが、新しいゲームだ。
若い頃とは違った努力が必要だ。

言うは易く行うは難し。

運の総量

日本には、運を「貯める」とか「使う」といった概念がある。(外国は知らない)

すごくラッキーなことがあると、「運を使い果たしてしまった。この後悪いことが起こるかも。」と思ったり、じゃんけんで負けると、「ここでは運を貯めてるんだ」と負け惜しみ言ったり。

この考え方は何なのだろうか。

 

運が良い、と感じるのは、期待値よりも自分に都合の良いことが起きたとき。
逆に、運が悪い、と感じるのは都合が悪い、と感じるとき。
実際は、起こったことに意味はなくて、ただの偶然。

であれば、期待値を下げていれば自然と、運が良いことが多い、幸運な人になれるのではないか。

 

この考え方に則ると、自分のことを幸運だと思う人は、周囲や偶然に期待しない人。
だから、ご機嫌な事が多いし、周囲や環境に感謝もできる。
幸運な人になりたい。

 

「運」という、科学で扱いにくいテーマを、ロジカルに考えてみたい。

「正しさ」の主張に意味はない

ビジネスや裁判ではなく、日常生活や職場など身の回りでの話。

 

先日、トレイルランで山を走っていた。
連休中で人も多く、歩く箇所も多かった。
人一人が通るくらいの道幅で、家族連れ3人が連れ立って歩いてて、その後ろについて黙って歩いていたが、なかなか道を譲ってくれないので、少し道幅が広がったところで最後尾のお父さんだけをヒョイッと追い抜いて、家族の間に一人割り込む形で歩き続けた。
大概、こういう場合は最後尾の人が前の人に、「先に行ってもらおう」と声をかけるものだと思っていた。
するとしばらくしてその最後尾の人が、「家族で歩いてんだよ!気ぃ使えよ!」とドツイてきた。

「だったら譲ってくれよ」くらいのことを言ってその場は離れた。

(赤の他人に気を使え、という人は、自分が気を使わない、と宣言しているものだろう。)

 

冷静に振り返ると、もう少しマシな振る舞いはあったなと反省した。
別にこの人に対して悪かったな、というのは無かったが、連休中の登山客には普段登山しない人もいるし、いろんな人がいるだろう。
こちらも、赤の他人に自分の都合の良い振る舞いを期待していた部分はある。
どんな人に対しても、互いに気持ちよく当たり障りなく、振る舞うのが大事だなーと思った。

と考えると、自分の「正しさ」を主張したり、相手の過ちを指摘したりするやりとりは何も良いことは無いなと。
都会の駅のホームで喧嘩してるのは愚の骨頂なわけだ。
(きっと余裕がなかったり機嫌が悪かったりしたところに、イラッとするようなことが起きたのだろう。。)

 

ビジネスや外交、政治、裁判など契約・競争社会では、人と衝突して自分の正しさを論理的に主張する場面もあるのだろう。
しかし、社会の中で人と供に生きるときに、何が正しいか、一般的にどうあるべきかではなく、この場所、この関係性の中で、どう振る舞うことが適切かを考えるのが大事だと思った。

そして、和をもって尊しとなす日本人は、契約社会の欧米よりも、そういった考えや振る舞いが得意なはず。

 

家族や友人関係はもちろん、職場の関係性の中でも、習慣や常識よりも、その関係性の中で気持ちの良い振る舞いを考えると、より生産性や幸福感が増しそうだ。

 

周囲の人と、どう折り合いをつけるか、自分も周囲も気持ちよく生きるためにはどうするか、のゲーム。
そう考えると少し、楽しい。

我慢せずに、心豊かに過ごしたい。

世のために、まずは知ること

歴史や地政学への興味が増していく昨今。

理由はもちろんウクライナ情勢だが、もともと歴史好き(高校の得意科目は理系のくせに日本史。先生が良かった。)で、世の中で起こっていることや、その因果関係を知る、理解することを面白いと感じるタイプ。

ただ、同居人はちょっと違うタイプのようで。
ウクライナでの悲惨な状況を見ると悲痛そうにして「自分に何ができるか考える」とのこと。
寄付するくらいしかできないのが苦痛そうな様子。

自分の場合は、世の中の大きな流れの中で、自分にできることなんか無いと思っているので、あまり「自分に何ができるか」とは考えなかった。

ただ、以下の一連のツイートを見つけたときにやはり、まずは知ることが大事なんだな、と思った。

世の中で何が起きているのか、それはなぜなのか、どうあるべきなのか。

その働きかけとして、直接のアクションは難しくても、知って、人に伝えること、意思表明することを草の根的にしていくことは、時間をかけて世論を作っていくのではないか。

短絡的なPRやプロパガンダに流されず、自分でしっかり事実を知り、因果関係を理解し、どうあるべきかを考え、伝えること。

 

正義や善悪に正解は無いけど、自分の立場で自分の考えるあるべき姿を、自分の中に持つことは、自分の人生を豊かにする上でも大事なことな気がした。

諦めることから始まる

メリハリつけてテキパキと物事をこなす、ということが苦手だった。

朝起きて、サッと支度を済ませて家を出る。
仕事の時間になったらサッとテレワークを始める。
食事が終わったらすぐに食器を片付ける。
etc...

短い時間で効率よく、生産性高く。
よく言われることだが、なかなか難しかった。


やりたいことや、やらなければならないことがあってもなんとなく気が乗らないとダラダラと過ごし、夏休みの宿題よろしく後からバタバタと取り掛かってできたりできなかったりする。

 

冒頭に「苦手だった」と書いたが、苦手だと認識したのがごく最近だった。
なんとかできるようになろうと、努力してきた。(努力と言えるか不明だが)

そして諦めた。
自分は、メリハリつけてテキパキと、効率よくこなすのが苦手なのだ、と認めた。

そして、次のことを意識するようにしてみた。

速くやるより早くやる

とりあえず、ダラダラとでもいいから早く取り掛かろう。
やってるうちにやる気も出てきてスピードも上がる。
そうすれば早く終わって、結果、効率も上がるだろう。

最近はそんなことを考えている。

 

自分の弱さや苦手を認めてあげることで、根性論ではなく仕組みや取り掛かり方で解決できる問題がある。

自分の弱さや苦手を認めることは苦しいことだ。

特に若いうちは。

でも、歳をとると、弱さを認めてあげることで新しいソリューションが見つかる。

きっと若いうちでもそのはずだ。

過疎

鹿児島県で、鹿児島市以外の市町村が過疎地域指定されているという記事を見かけた。
島根県は全市町村が過疎地域のよう。。)

 

www3.nhk.or.jp

 

出水市企画政策課は「これまでも少子高齢化や人口減少などの課題を抱えていたが、過疎地域として指定されたことで国の支援をいただきながら持続的な発展にいっそう努めたい」とコメントしています。

過疎地域なのに「持続的な発展」とかしなくて良くないか?
「持続的な発展」のために、コンパクトシティとか効率的な都市計画すべきじゃないか?
こんなのに国家財政使うのか?

 

最初に持った感想はこんな感じだった。

過疎地域って今どのくらいの規模なのだろう、と調べてみると、過疎地域の人口を足し合わせると東京都の人口に匹敵する。
そして、面積にすると半分以上。

過疎市町村の数は885、全国の1,718市町村の51%に当たります。(令和4年4月1日現在)
 過疎市町村の人口は約1,162万人余(令和2年国調人口)、全国の人口の9%余に過ぎませんが、その面積は日本国土の約6割を占めています。

 

www.kaso-net.or.jp

このような地域に住む人は、長年住み続けている人が多く、地域への愛着が強い。
というか、他の地域に移ることに強烈な拒絶な反応を見せる。

このような人を動かして、コンパクトシティ化、都市計画の効率化なんて言い出したら、政治家は選挙に受からないわけだね。

これが民意か。。

 

ちなみに「過疎地域」とは、ざっくり言うと人口減少が続いている地域のこと。

 

ここまで調べてみてふと思った。

日本国土の半分以上の面積が過疎化。
仮にこれがそのまま無くなったら、農産業、観光業等で大きな打撃があるのではないか。

そんなデータあるかな?

失われていく文化もあるだろうし、整備されない手つかずの自然だけが残ったときに何が起こるのだろう。

 

思考実験してみると面白いかも。

財政だけの問題ではないかもしれない。