もふるの日記

心身ともに健やかであること

「正しさ」の主張に意味はない

ビジネスや裁判ではなく、日常生活や職場など身の回りでの話。

 

先日、トレイルランで山を走っていた。
連休中で人も多く、歩く箇所も多かった。
人一人が通るくらいの道幅で、家族連れ3人が連れ立って歩いてて、その後ろについて黙って歩いていたが、なかなか道を譲ってくれないので、少し道幅が広がったところで最後尾のお父さんだけをヒョイッと追い抜いて、家族の間に一人割り込む形で歩き続けた。
大概、こういう場合は最後尾の人が前の人に、「先に行ってもらおう」と声をかけるものだと思っていた。
するとしばらくしてその最後尾の人が、「家族で歩いてんだよ!気ぃ使えよ!」とドツイてきた。

「だったら譲ってくれよ」くらいのことを言ってその場は離れた。

(赤の他人に気を使え、という人は、自分が気を使わない、と宣言しているものだろう。)

 

冷静に振り返ると、もう少しマシな振る舞いはあったなと反省した。
別にこの人に対して悪かったな、というのは無かったが、連休中の登山客には普段登山しない人もいるし、いろんな人がいるだろう。
こちらも、赤の他人に自分の都合の良い振る舞いを期待していた部分はある。
どんな人に対しても、互いに気持ちよく当たり障りなく、振る舞うのが大事だなーと思った。

と考えると、自分の「正しさ」を主張したり、相手の過ちを指摘したりするやりとりは何も良いことは無いなと。
都会の駅のホームで喧嘩してるのは愚の骨頂なわけだ。
(きっと余裕がなかったり機嫌が悪かったりしたところに、イラッとするようなことが起きたのだろう。。)

 

ビジネスや外交、政治、裁判など契約・競争社会では、人と衝突して自分の正しさを論理的に主張する場面もあるのだろう。
しかし、社会の中で人と供に生きるときに、何が正しいか、一般的にどうあるべきかではなく、この場所、この関係性の中で、どう振る舞うことが適切かを考えるのが大事だと思った。

そして、和をもって尊しとなす日本人は、契約社会の欧米よりも、そういった考えや振る舞いが得意なはず。

 

家族や友人関係はもちろん、職場の関係性の中でも、習慣や常識よりも、その関係性の中で気持ちの良い振る舞いを考えると、より生産性や幸福感が増しそうだ。

 

周囲の人と、どう折り合いをつけるか、自分も周囲も気持ちよく生きるためにはどうするか、のゲーム。
そう考えると少し、楽しい。

我慢せずに、心豊かに過ごしたい。